巻頭言(Vol.32 No.7)2010.7.05
ある日の暮方の事である。人の下人が羅生門の下で雨やみを待っていた。よく知られている『羅生門』の書き出しである。
芥川龍之介は自ら装丁した第一短編集『羅生門』の扉に「君看ヨ双眼ノ色語ラザレバ愁ヒ無キニ似タリ」と入れた。白隠禅師の「君看双眼色不語似無憂」(さあ、その目の色をご覧なさい。何も言わなければ憂いがないように見えるでしょう)である。この時から十年、芥川の愁いは彼の生命を削りとった。彼の憂いとは何であったか。言葉である。
辞書のなかの言葉は死語である、文の中に定まる姿で屹立したとき初めて生きる、とした芥川は、自分のスタイルすなわち言葉を発見し組み立てるのに命を削った。
「青蛙おのれもペンキぬりたてか」という俳句など短詩型文芸にも鋭い。江口喚によれば、友人たちに書き送った書簡の端に書かれた俳句や短歌はそれぞれゆうに一冊の本になるという。短歌には真剣に打ち込み「朝顔のひとつはさける竹のうらともしきものは命なるかな」「春雨はふりやまなくに浜芝の雫ぞ見ゆるねてはおれども」などすぐれ「わが門のうすくらがりに人のゐてあくびせるにも驚く我は」(病中愚作)は自殺直前の心理を鋭く表現している。
一九二七年七月二十四日未明、『続西方の人』を脱稿し枕元に聖書と遺書をおいて永遠の眠りについた。外は雨が降りしきっていた。 (松岡)
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