太陽の舟短歌会のHpが出来てから一年が経ちました。徐々に閲覧、投稿される会員が増えております。、このプログでは各月の役員会議事録、巻頭言を載せておりますが、会員の方から見た太陽の舟短歌会の今後のあり方、現状の問題点など、会員のひろばと一味違うご意見があっても良いのではないかと思います。ご投稿をお待ちしています(丸山)
開催日 10月9日 16:30~16:40
1、確認事項
・松岡編集長より来年の執筆年間計画および原稿依頼があり各支部長は今月末までに
連絡すること。
・事務局より「役員会の現状と委任状の提出について」の書簡が各支部長に配布されその
内容についての説明がなされた。
出席者 高崎、松岡、三木、原田、山田(紀)、富永、山名、川村、庄司、久保田、末次、
照山、生稲、丸山、北川。 以上15名
十月一日は日本酒の日である。この日になると必ず思い出す歌がある。若山牧水の「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」である。牧水は一日一升飲んだという。唐の李白も大の酒好きで「酒一斗詩百篇」と言われ、「山中にて幽人と対す」とする「両人対酌山花開 一杯一杯復一杯 我醉欲眠旦去 明朝有意抱琴来」など酒豪家李白の面目躍如。また「花間壺酒 独酌無相親 挙杯迎名月 対影成三人」(月下独酌)など牧水の世界に酷似する。我歌えば徘徊し、我舞えば影零乱す。
古来酒を詠んだ歌人は多い。然し昭和三年九月十七日、四十三歳で亡くなるまで約三百首の酒の短歌を作った牧水の右に出る者は多くはいまい。
酒のためわれ若うして死にもせば 友よいかにかあはれならまし
鉄瓶のふちに枕しねむたげに 徳利かたむくいざわれも寝む
妻が眼を盗みて飲める酒なれば 惶てて飲み噎せ鼻ゆこぼしつ
大正十三年の九州旅行で「とにかく思い残すことなく飲んで来た。揮毫しながら、大きな器を傾けつつ飲んだ。また、別に宴会なるものがあった。一日平均二升五合に見積もり、一人して約一石三斗を飲んできた、と数字に示されたときは、流石の私も、ものが言えなかった」とは以って瞑すべし、というべきか。 (松岡)
9 月 役 員 会 9月11日 16:30~16:50)於 品川区立区民会館
1.承認事項
・事務局より、「年間主要予定表」に基づき来年新年歌会会場を六本木「アイビスホテル」で開催することを承認した。
(開催日は2月役員会の決定により1月8日(土)とし、開始時間は従来通り12時からとする。参加費は歌会費込みで9千円を予定している)
・また、来年全国大会の開催に当たり、集合時間は6月4日(土)13時30分郷土資料館とするので各自昼食を済ませて集合することの旨が報告された。これにより参加費は千円下げて募集する。(現在、歌会費込で19千円と試算している)
2.確認事項
・今月の役員会の開催に当たり、欠席した末次支部長より委任状が提出されましたが、委任状の様式制定以来、初めてのことです。役員と言えども歌会の出欠は私的なことですが、役員会の出欠は公的なことですのでその責務を自覚し、今後、役員会を欠席する場合は必ず委任状を提出することを確認した。
役員会は毎月開催されていますが、12名以下の出席では会則第8条により2/3を充たしていないため役員会が成立しないことになり、諸事項が承認されないことになります。
出席者 高崎・松岡・原田・山田(紀)・冨永・山名・川村・庄司・志賀・生稲・石塚・北川
(委任状) 末次 以上13名
明治三五年九月十四日朝、正岡子規はガラス障子の外に夏の終わりゆく中庭を眺めながら、高浜虚子に口述筆記させる。「・・・たまに露でも落ちたかと思ふやうに、糸瓜の葉が枚枚だけひらひら動く。其度に秋の涼しさは膚に沁み込む様に思ふて何ともいへぬよい心持であった。何だか苦痛極って暫く病気を感じないやうなのも不思議に思はれた・・」そして、五日後の九月十九日午前一時、三十六才の若さで死去する。
正岡子規は、発句から俳句、和歌から短歌への革新を短い生涯のうちで成し遂げた。子規が短歌の革新に取り組んだのはカリエスが悪化し、殆ど寝たきりの生活を強いられた時期。病身を鼓舞して新聞「日本」に『歌詠みに与える書』を発表した。
何事にもすべて実証的であった子規が俳句においても短歌においても革新したのは「写生」である。死の床にあっても、夏の終わりの中庭を、虚子に口述筆記の写生をさせる。「糸瓜の葉が一枚二枚だけひらひら動く」。骨の髄まで写生精神に貫かれていたのである。尺ばかりの薔薇の芽に触れて見たくて花壇に向かう、さすれば、針やはらかに春雨が降っていたのである。
斎藤茂吉は「写生トイフコトハ、生ヲ写スコトデアル、生ハ即チいのちノ義デアル」として「實相に観入して自然・自己元の生を写す。」これが短歌の写生であると言う。
子規と茂吉の詩精神の原点を今度考えたい。 (松岡)
8月役員会 8月14日 16.00~1800 (きゅりあん)
事務局より、来年の全国大会は大磯プリンスホテルで6月4日(土)~5日(日)で開催したい旨の報告があり、これを承認した。
今後、土方支部長に連絡しホテル側との詰めの交渉他を依頼する。
また4日の講演会及び5日の歌会は城山公園内の郷土資料館内で行うことなどを承認した。
なお4日午前10時半頃に集合した有志には大磯支部が鴫立庵他を案内することを予定している。
出席者 高崎、松岡、三木、山田(紀)、山名、川村、久保田、志賀、末次、生稲、多久和、
丸山、北川、 以上13名
「悪魔退くる力なきものの行為の半は其身もまた悪魔なれば也。已に業に其身悪魔の行為なりて悪魔を退けんは難し」一九一三年八月一日、足尾鉱毒との闘いに命をかけた田中正造は日記に記し、翌日に倒れた。再び立てず九月四日に逝く。菅笠と合切袋一つをのこした。中には帝国憲法とマタイ伝を綴じたもの、渡良瀬川の石があった。
田中正造は三宅雄二郎宛書簡(明治三七年一一月二六日)のなかで「戦争の罪悪は論を要せず」として「戦争は必要なりとする事ありとするも、我国の内政の如き、公盗横行の政府にして妄りに忠直の人民を殺すことを敢えてするものの戦争を奨励するに至りて言語道断なり」と述べている。戦争は罪悪であり世界の軍備は全廃すべきである(正造翁談)とした思想は、「戦争は正義」とされた時代にあってまことに偉大であった、と言わざるを得ない。その田中正造に狂歌集がある。そのいくつかである。
人ハ皆桜のころになりにけりうかれあつまる人の花山
各々が我田に引ける水ほどのすめる心を持つ人ぞなき
よの人のあわれをおもふ真心の尚つれなきぞ秋の夕ぐれ
天が下見れバ社会は面白し山田かかしも雪のだるまも
足尾鉱毒事件に私財を擲って闘い信玄袋ひとつ遺して逝った田中正造に、世の中は面白い、山田のかかしも雪だるまも、と詠んだ狂歌があった。歌詠みは柔らかな心と同時に社会に対する厳しい判の目を持たねばなるまい。 (松岡)
・承認事項 特になし
・高崎代表・松岡編集長より全国大会の総括がなされ、月の舟支部に対して慰労と謝辞が述べられた。
・松岡編集長より原田同人の歌集に対する書評を8月10日までに投稿するよう依頼があった。
出席者 高橋・松岡・原田・北川・丸山・山田(紀)・富永・山名・庄司・志賀・末次・照山・
石塚 以上13名
(7月3日)
ある日の暮方の事である。人の下人が羅生門の下で雨やみを待っていた。よく知られている『羅生門』の書き出しである。
芥川龍之介は自ら装丁した第一短編集『羅生門』の扉に「君看ヨ双眼ノ色語ラザレバ愁ヒ無キニ似タリ」と入れた。白隠禅師の「君看双眼色不語似無憂」(さあ、その目の色をご覧なさい。何も言わなければ憂いがないように見えるでしょう)である。この時から十年、芥川の愁いは彼の生命を削りとった。彼の憂いとは何であったか。言葉である。
辞書のなかの言葉は死語である、文の中に定まる姿で屹立したとき初めて生きる、とした芥川は、自分のスタイルすなわち言葉を発見し組み立てるのに命を削った。
「青蛙おのれもペンキぬりたてか」という俳句など短詩型文芸にも鋭い。江口喚によれば、友人たちに書き送った書簡の端に書かれた俳句や短歌はそれぞれゆうに一冊の本になるという。短歌には真剣に打ち込み「朝顔のひとつはさける竹のうらともしきものは命なるかな」「春雨はふりやまなくに浜芝の雫ぞ見ゆるねてはおれども」などすぐれ「わが門のうすくらがりに人のゐてあくびせるにも驚く我は」(病中愚作)は自殺直前の心理を鋭く表現している。
一九二七年七月二十四日未明、『続西方の人』を脱稿し枕元に聖書と遺書をおいて永遠の眠りについた。外は雨が降りしきっていた。 (松岡)
1、来年の全国大会担当支部は大磯支部に委託することとし、土方支部長より承諾を得た。
2、確認事項
(1)北川会計掛より現在の会員数は152名に減少しており、特に今年前半で維持会員が
数名退会され、今年は財政的に赤字が倍増する状況にあるとの報告があった。
(2)その対策として
・高崎代表、三木部長による短歌講座を継続していただき入会者を募る機会とする。
・HPを立ち上げたが、これまでの経験から口コミによる勧誘が一番確実であることから、
各員が機会を逃さず勧誘活動を今後も行っていくことにする。
・高崎代表より歌誌の力量が短歌会の命であり、よい歌を詠うことが短歌会を支える力と
なるので、今後とも会員は良い歌を詠うことに熱意を傾けて欲しいとの意向が示され
た。
・なお、運営懇談会では各支部長より会員増加のための取り組みの状況が報告された。
出席者 高崎・松岡・三木・原田・森・北川・丸山・山田(紀)・富永・山名・庄司・久保田・
志賀・末次・照山・多久和・石塚・(地方支部長)岩橋(代理)・土方・二反 田、以上20名
(6月27日 那須塩原明賀屋本館にて。)





