巻頭言(Vol.32 No.6)2010.6.04
明治四十四年(一九一一)六月一日、青鞜社発起人会が開催された。その三ヶ月後『青鞜』が創刊される。「原始、女性は実に太陽であった。真正の人であった」というよく知られた言葉は、二十六歳の平塚らいてうによって書かれた。創刊に与謝野晶子は「山の動く日来る かく云えども 人はわれを信ぜじ」の詩を寄せる。
明治女歌の夜明けを告げたのは、与謝野晶子である。『みだれ髪』で「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」と詠って熱狂的な支持を受け「やは肌の晶子」と呼ばれる。また「乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き」と性愛の扉を押して官能の歓喜を大胆に歌い上げ、浪漫派歌人のスタイルを確立した。
然し晶子は優れた女流浪漫派歌人であっただけではない。召集され旅順攻囲戦に加わった弟を嘆き『君死にたまふ事なかれ』を発表。大町桂月に「家が大事也、妻が大事也、國は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りにも大胆すぎる言葉」と批判され、「たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、また何事にも忠君愛国の文字や、畏おほき教育勅語などを引きて論ずることの流行は、却って危険」と反論し、「歌はまことの心を歌うもの」と一蹴する。
山動く日の来たことを与謝野晶子は心底認識していた人間であったことを歌人は知らねばならない。 (松岡)
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